もくじ
私の発信を色々見て下さっているかたはもうご存知ですが、鬼滅の刃が好きです(笑)。ちなみにこの引きこもり生活の間に読んだり観たりしたアニメ、漫画、映画の中で特に印象的だったのはイティハーサと鬼滅の刃。その二つに共通するのは「闇や陰は誰の中にもあるものであり、どう付き合うか」という扱い方なところ。ただの「敵に勝利し気分がよくなる」な単純なお話ではないところです。そしてその、闇や陰は誰の中にもあるもの―というのは、ウイルスにも言える話なのだと思っています。(世の中に存在する必要のないものはなく、必要があるから存在しており、それらとどうつきあうか?で、威力や強さや見方が変わるものなのだと思う。ウイルスに関して色々視点が増えて良かったな、と思った記事をいくつか紹介している記事はコチラ)
鬼舞辻無惨が気に入っていた鬼
まず下弦の伍の累(るい)。累と家族ごっこをしていた姉鬼がぽつりとつぶやいたことがあります。
「累(るい)はあの方のお気に入りだから―」
他の鬼には許されていない行為(力を分ける、鬼同士で群れる)もできていたようです。
もう一人の特別扱いされた鬼
わたしがちょっと気になったのは、猗窩座(あかざ)。
猗窩座(あかざ)が死んだ後に、童磨(どうま)が言います。
猗窩座(あかざ)殿って絶対女を喰わなかったし、殺さなかった。それを結局あの方も許してたし、ずるいよね。猗窩座(あかさ)殿は生かされてた。特別扱いだよ
猗窩座(あかざ)のどこが無惨に響いたと思ったか、それは猗窩座(あかざ)が人間の頃に暴力をふるった理由が
”病弱な父に薬を買うためのお金を得るために強奪するため”
だったことかな、と考えています。そして猗窩座(あかざ)は、父だけでなく婚約者も病弱だった。猗窩座(あかざ)はズルイことをする弱者は憎んでいたけれど、病弱な人たちには自分なりの優しさを発揮していたんだよね。その優しさを人が求めるかどうかは別として。
無惨は病弱で新薬を試され鬼になった
無惨は人間の頃大変病弱で、家族が雇う医者が新薬を調合し試した結果、鬼になりました。その、ありのままの自分を受容してもらえなかった無惨にとって、病弱である累や、病弱な家族や大切な人を大切に思う猗窩座(あかざ)は無意識にちょっと特別扱いしたくなる存在だったのかなぁ、なんて思っています。
違う見方も—
もちろん、累は賢かったので、その点を買われていたのもあるだろうし、猗窩座(あかざ)は強かったし、強くなることに対しての執着がすごかったから、その点を買われていたのもあると思います。でも、きっとそれだけじゃないと考えています。人(おそらく鬼も)は、何かをするときに一つだけの理由で動くことは少ない。一つの理由だけでやっているようにみえて、自分でも気づかないような小さな理由が二つも三つもあると思うのです。
実は小さな理由が本音を隠していたりする
無惨に関しては分かりようがありませんが、普通に生きる人の場合、小さな小さな理由が本音を語ったりしている場合があります。大きな理由は、人に説明をしやすかったり、正当化させやすい理由だったりする。本当は、小さな理由が本音。そんなこと、思い当たりませんか?わたしは一杯ありましたよ(笑)。
猗窩座(あかざ)の場合は、強くなりたかったけど、死ぬ時に「強くなりたかった」のが一番の望みではなかったことに気づきます。強くなりたかった”理由”が、本音なのです。
「大切な人を守りたかったから、強くなりたかった—」
(人は往々にして、このように、”一番の望みではなくそこから派生した枝葉”に囚われてしまうものです)
鬼は鬼になるから鬼らしくなるのではない
鬼になったら人間だったころの闇の部分に支配されているだけ。闇以外の部分を忘れているだけ。それは、鬼にならなくても人間でも同じことが言えます。”鬼みたい”な人間は存在する。だからと言って、その人が闇だけなわけではないということ。そして、闇がないように見える人ですら、闇はあるということ。
色んな側面を持つ自分の内側との付き合い方を、バランスのとり方を、自分の取り扱い方を、自分自身で知っていくだけ。
病気は悪いことなのか
ウイルスでも病気でも何でも、「こうなったらダメだ」みたいなのって、本当に悪いことなのかな?と思ったりするのです。問題を問題視するから、問題になる、みたいな。(異常な楽天的視点で現実を無視することとは別。最近育児ネタかで気になるのは、「コミュニケーション能力が大事」とかいうもの。コミュ障なのと、人間として付き合いたいかどうか?とは全く別だと思います。コミュ障でも人柄は付き合えば分かる。ハイジのおんじとか思いっきりコミュ障やんか。笑笑。コミュニケーション能力高くても、要領が良いだけで上っ面だったり、本音ではなくウソばかりの人は私はあまり好きではないですよ?笑。そしてそういう人の一部は、世間の意見を採用しているだけで全然自分の本音を全く気づいてなかったりします。私含め、コミュ障の側はコミュニケーションが上手でつなぎ役を買って出るかたに感謝の気持ちを持っていたいし、コミュニケーションが上手な人でも努力してそこに辿りついた方は、もしかすると努力をやめたら別の素質が開花する可能性もみた方がいい。←私がそうだったw。どんな人でも、素質を認め合って協力したいですね♪)
人の根底にある”死”への恐れ
今(2020年4月現在)のコロちゃん騒ぎでもそうですが、”死”に対する自分の概念のようなものを問われている気がします。鬼滅の刃で言うなら、人間も鬼も死への恐れがあるのは一緒。人間の場合は、自分の死に対してはあまり恐れがない人でも、大切な人の死は恐れている(私もです)。恐れとという感じではなくても、忌み嫌うものであったり、考えたくなかったり、避けたいものである。その恐れとは何か?を直視するタイミングが来たのではないか、と感じています。(特に私自身にとっては強くそう感じます)。
無惨は最後の日まで自分の死を恐れていた。そして他の鬼たちもそうだった。
鬼滅隊の一部は、自分の死は恐れていないが、守りたい人や大切な人の死は避けたがっている。
恐れることや憎悪が悪いのではない。気づかないのが無意識の暴動を生む
なぜ自分の死や大切な人の死が怖いのか―。それはいつか、ちゃんと気持ちをみてあげた方がいい、せめて、気づいてあげた方が良い気がします。自分が「今がそのタイミングだ」と感じた時に。
なぜなら、無意識の恐れや憎悪や怒りが、無意識の攻撃や暴動を生むからです。自分の中にそれがあるのに気づいていれば、何も考えずに買い占めをすることなんか起こらない。
買い占めがダメなのではなく、何も考えずに無意識にしていることが、(私の考えでは)世の中に好ましいことではない、特に、これからの時代には減って欲しいものだと思っているのです。
気づけば選択肢があることが分かる
無意識でしていたこと、無意識で抱いていた感情や気持ち—
それらに意識的になり、気づいてあげることで、気づいた時点ですこし視点が上がります。無意識で色々なことを思ったり行動していたりするうちは、自分の視点は自分の中にしかいない(グルジェフの言葉を借りるなら、「人類は奴隷として生きている」。映画のマトリックスの中に無意識にぼ~~っと生きているだけ、ともいえる。自分の内側の動きに意識的になると、(潜在意識の無意識のパターンからの)奴隷状態から抜けます。)
ぜひ、色々な自分に気づいてあげてください。
それが、誰の中にもある闇や陰の部分と上手くつきあえることになります。また、闇や陰の部分は、本当の望みを知る手がかりであったりもします。(無惨の本当の望みの一つは、ありのままの自分を家族に受け容れてもらいたかったことだと、私は感じています。本当は受け容れられていたかもしれなかったけど、少なくとも無惨にはそう感じられていなかった気がする。だから、まずは自分で自分を受容することが、とても大事です。「わたしはわたしでいいのだ」と)。
本当の自分の声を聞くためにも—
自分に気づき続ければ、自分の本当の望みの声なんかにも気づきはじめます。そうすれば、周り道しすぎず、必要以上に周りを傷つけることも少なくてすみます。
鬼滅の刃をみながら、読みながらも、自己受容や自己理解、自分に気づくことの大切さをひしひしと感じた私です。
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